2002 / ガレリアキマイラ

藤島俊会

展評

空間を切り出す 関直美の方法を考える

 木を扱う造形作家には大きく二つのタイプに分けられると思う。一つは正真正銘の彫刻家と称してもよい人で、彼らは対象である木の中心に向かって、彫り刻んでいくタイプである。木に自分自身の姿を投影する、つまり木に生命的な形や、あるいは木の精神とか森の形といったものを追求するのである。

別の言い方をすれば、樹木の中に潜んでいる木の魂とでもいえる形を取り出すために余分な木を削り落とすのである。本当は素材と技術に備わる制約に過ぎないのだが、しばしば技術論や素材論を超えた表現論に展開したり、さらには日本人のルーツをたどる日本列島文化論に発展することもある。

それに対してもうひとつのタイプは、ほとんど彫り刻むことをしないで、角材や板を組んだり、構成したりして、空間に構築物を設置する造形作家である。そうかといって建築的な作りではなく、インスタレーションという、仮説的な設置であるといえる。関直美が後者に属することは言うまでもない。では作家は何故空間に対してそのような取り組み方をするのだろうかと問えば、それは空間の魅力に取り付かれたからである、というほかはない。その意味で関ほど空間に強い興味を抱き、空間の魅力を引き出す醍醐味を見せてくれる作家も少ないのではないだろうか。

作家の空間に対する独特の感覚は、まず空間を量として把握する目を持っていることである。作家自身の身体内に、いわば空間の量を測る尺度が自ずから据付けられているといってもよい。作家の尺度によって測られた空間の量と、与えられた素材を前にして、作家の勇敢な挑戦は開始されるのである。つまり作品が造形物だけで成り立つのではなく、造形物と見えない空間は同等の質をもって充実した空間全体を構成すること、関にとっての空間とはそういう具体的な量と質を備えたものであることを意味する。

しかしそれだけならダイナミックな空間を操る立体造形作家だといって済んでしまう。関の作品でもう一つ顕著な特徴は、しばしば重力や素材の性質に逆らう構成や組み立てを積極的に試みることである。素材と対峙する彫刻と違って、構成や組み立てという方法は、素材をニュートラルに見ることを当然とするが、関はそこに素材の持つ自然性を逆説的に対立させる。コンセプトを重視して、素材の抵抗をねじ伏せるところに危うい見え方もするが、しかし素材の抵抗はそこにもう一つの顔を見せ、そこに作家の本領が現れる。

ギャラリーの2階と3階に展示された新作は、四角な部屋の中に入れ子状にもうひとつの柔らかい空間が作られる。何もなかった時には見えなかった四角な部屋の構造が、作者の手によって目に見えるものとなって発見されたといってもよい。しかも2階の大作の方の内部空間には、人が通れるような空間が仕掛けられ、その通路は緊張感を誘い、かつまたユーモアを誘う仕掛けにもなっている。ユーモアとは、新たな空間の発見に対して示す賛意の表れでもある。また玄関を入った場所と、廊下の壁に取り付けられた2点の作品は、空間の芯と壁面をぎりぎりに飾る、といった意図で作られている。装飾と抑制のせめぎあいの末の結果がそこにあるといってもよい。

ところで今回の展示作品を見る前に、アトリエで過去の二つの作品を見せてもらった。「記憶容量」という作品は、細い3本の足で相当な重量の太い柱をを組み合わせた木枠を、かろうじて支えているように見る。そしてその危うさがまたユーモアを誘う。

もう一つの作品は、長い手が伸びて空間をつかもうしているような大きな縦長の柱がいくつか並び、その手が空間を見事に寸断するのを感じさせる作品である。柱の胴体部にはスライス上に空間が作られ、細い金属の帯が空洞に沿って貼り付けられているが、これも空間の密度を感じさせる作者の尺度が仕組んだ装置である。

このように関は、目に見えない空間を、具体的なものの形を通して目に見えるように仕掛ける。そしてそれらに共通して見えてくるのは、空間を実の空間と虚の空間のダイナミズムととらえる原理である。実はこの原理は多摩美術大学時代の恩師建畠覚造氏がヘンリー・ムーアの彫刻から導き出した原理であり、関は、この原理を角材と板を使ってまったく独自に実現させて見せたのである。また関の造形空間が、一見するともの派の作家菅木志雄の空間に通じるように見えるが、菅の空間が、素材を通して有と無の境界を省略や飛躍によって越えることで充足する世界を成立させているのに対して、関の作品は徹頭徹尾計量できる質と量の空間をとり扱うところに最大の違いがある。しかも緊張感や不安感がユーモアを誘うという、アートの持つ逆説的な本質を証明しているのである。