2009.04.20 / キッド・アイラック・アート・ホール

関直美(美術)+深谷正子(身体)

宮田徹也 / 日本近代美術思想史研究

関直美が作成した、横A4サイズのラミネートされたガーゼが正面7×2、側面5×3列に並ぶことによって形成する150×50×50cm程の有機的立体が、舞台中央に位置する。このオブジェに10台の扇風機が向けられている。天上からオブジェに向けて一灯のライトが光る。

開演時刻になると集まった者達は荷物を置いて、一度表に出て再入場する。横からのスポットが二つ、オブジェを照らしている。オブジェの中には深谷正子が座っている。照明は上部のみとなる。深谷は動かない。無音の状態が何時までも続く。

深谷の右肘がオブジェの内側から壁面を押す。オブジェの上部1/5辺りに僅かな折れ目が生じる。右掌が壁面を押す。ビニール独特の軋む音が無音の会場に鳴り響く。再び右掌、そして両掌で壁面を押すと、立体の形が崩れていく。

深谷はガーゼが貼られていない僅かな隙間から外を覗き込む。膝を立てた深谷は垣間見ることを止めない。立ち上がり、隙間を指でなぞる。両手を広げてオブジェを支え、その形を崩していく。

オブジェは深谷のサイズに合わせて作られているような気がする。深谷は形を壊したまま、動かなくなる。突如、瞬時に力を加え、更に力を与えて立ったまま上体を折り、膝を床に着き、停止する。オブジェは最早原型を留めていない。

更に倒れこむと、オブジェの形は深谷と同化する。しかし深谷が手を伸ばすと、オブジェの上部はその形を直ぐに取り戻す。深谷が足を伸ばしていくと、オブジェは崩れることなく斜体になり、それまで側面だった部分が底になる。

深谷は仰向けになり動かない。長い沈黙の後、足先のみをオブジェの下から出して、体の左側面を横にする。更に肘を下に着けてうつ伏せとなる。体を捻り向きを替え、左足を下に、右足を浮かせる。人間の足の形の異様さが浮彫となる。

両足を下に着き、仰向けからうつ伏せに、更に膝を立てて四足となり、後方に投げた右手がオブジェから乖離を始める。更に左手を抜き、頭部だけが中に残っている状態となる。その深谷の背中をオレンジ色のライトが照らす。顔を両手でオブジェに包み、その掌を宙に彷徨わせる。頭が抜ける。ここまで35分かかっている。 掌の運動は続く。両手を伸ばし、オブジェと決別する。膝を折り、脛と臀部を床に着ける。背を丸めては伸ばし、肘から指先を再びオブジェに挿入する。音を聴いているような表情を浮かべる。足を前に投げ出し、手を入れては出す行為を繰り返す。

膝を折り、肘で体を支えて首を起こす。視線は正面を見据えている。肘で移動を始め、左側面を下にして両手を挙げる。次に右足、そして左足。足は壁を舐める。右手、右肘、掌、右腕全体が壁を這う。そして額も右頬も壁に擦り付ける。

膝を立て、右頭部と右掌が壁を支える。背を丸めながら、上体を起こしていく。眼は上部を見詰めている。再び背を丸め、壁の隅に身を屈めていく。 扇風機が唸りを上げる。オブジェの口に風が入り、それによってオブジェは微細に動作を始める。ファジー設定の為に風が止んだり吹いたりして一元的ではない。深谷は動かない。

はじめて曲が空間を切り裂く。重いロックだ。照明が落ちていく。闇の中で扇風機が止まり、50分の公演は終了を告げる。

 深谷の僅かな移動の中に、多大なダンスが内在化していた。それは皮膚であり、呼吸であり、内臓であり、視線であり、内面であった。この内と外の交換は空気を振動させ、扇風機の風以外にもオブジェと我々を震撼させた。

 深谷に呼応したオブジェは舞台装置ではない。彫刻である。二十世紀、彫刻は様々な試練を与えられ、多種多様に変貌を遂げた。しかしどれ程文明が発達しようとも、重力と物質から逃れられない彫刻は、以前、原初時代の形態を留めている。画面の内側に存在してしまうと、最早それは絵画であり映像に変化してしまうのだ。しかし彫刻が抱える問題は、人間も同様であると言い換えることが出来る。気が遠くなるほどの果てしない時間が経過しようとも、進化論を承認しても否定したとしても、人間が人間となった限り、人は人のままなのだ。むしろ「退化」しているのではないかという印象さえ受ける。すると、古代の彫塑を打ち破る手立てを現代の彫刻家が打ち破る術はないのか。現代の舞踊家が原初の祝祭を超えることは出来ないのか。

この進歩と退化、前時代に対する超克を考慮に入れている限り、この問題自体を乗り越えることが出来ない。今回の公演は少なくとも、単なる舞踊と彫塑のコラボレーションに堕ちることは無かった。深谷と関の立体が調和したことは、却って人体と物質の差異を明らかにしたことに繋がる。それが見る者の内面を揺さぶることがあったのならば、現代でも古代でもない、唯一の存在としてこの時間が成立したことを示している。この時間と言う近代が創り上げた概念を払拭する唯一の存在を、求めるのではなく敢行した点に、この公演の意義が存在する。