「かわさきでアート2014」/ 2014.11.1 - 11.30

宮田徹也 / 日本近代美術思想史研究

「かわさきでアート2014」は「ART KAWASAKI」(2004-2009)、「お大師でアート」(2011-2013)を引き継ぐアーティストによる展覧会である。ここでは展覧会評というよりむしろ、アートかわさき実行委員会の代表である関直美のキュレーションについて言及する。

「かわさきでアート2014」は、11月1日~30日まで、川崎大師大山門前仲見世通りの野外各所とギャラリーもっちー、東海道かわさき宿交流館3階で展示とパフォーマンスを開催した。10月30~11月1日の三日間は記念イベントして、東海道かわさき宿交流館4階で関直美とヒグマ春夫のインスタレーションに各回ゲストが参加する「交流館1年の歩み」が開催された。

11月1日、尾身美苗(ダンス)+田中悠宇吾(シタール)とのコラボレーションを見た。関によるランダムに置かれたパネルと額縁のインスタレーションに、ヒグマによる抽象的な映像が投じられている。後方全面に風景のモノクロ写真が投じられると、白い紗幕を羽織った尾身が舞台に出てくる。田中の演奏は、シタールとは思えない電子的な音色である。

尾身は旋廻を続け、田中はシタールそのものの音を演奏し、ヒグマが投じる抽象的なCGは人間の存在の根底を弄るまでに生々しい。尾身はインド舞踊的要素を見せ、ヒグマの映像はサイケ調から波の波紋に変化する。シタールの音が舞い上がり、尾身が蹲ると45分の公演は終了する。底辺に持続しながらも渦が巻く様な情熱的な公演であった。動きのある三者を支えていたのは、関の空間性を強調したインスタレーションであろう。公演を見終わった時に、私はそう考えた。しかし、想い起こすと空間性よりもむしろ、関のインスタレーションは造形性が深いのではないかと感じる。

この点を気付かせてくれたのが、11月8日に東海道かわさき宿交流館3階で行われた小松睦によるパフォーマンスであった。コンテンポラリーダンス出身の小松ではあるのだが、この日小松は象徴的なポージングに徹した。それが何を表していたのかが問題ではなく、小松の人体の形により、会場に展示されていた作品群の造形性が浮彫になったのであった。当然のことながら、それほどまでに小松のパフォーマンスは優れたものであった。

繰り返すが、ここでは作品評はしない。三つの会場で見た作品群とパフォーマンスから引き出されるのは、関のキュレーションの特徴である「造形性」にある。関の作品はFRP、プラスティックの結束バンドなどを使用していても、カーヴィングやモデリングといった彫刻の基礎を疎かにすることはない。むしろその技法を隠すことによって強調しているのではないかとさえ感じることが多々ある。関が選んだ作品群は彫刻、絵画、インスタレーション、映像、または分類できないものと様々であるが、共通する事項は明確に形を取り、手作業の痕跡が残されていることにある。

今日、「造形」など古臭い発想を携える者は少ないが、この基本に立ち戻る必要性を関の選んだ作品群から教わることができる。関がこの点に自覚があるか無意識であるのか定かではないが、派手な作品に基本が埋没する今日、「造形性」の発見は貴重である。解体された肉体を取り戻すのでなく、肉体は解体されないことを示しているのだ。

関はベテランから新人まで様々な動向に対して目を向け、作家を誘っている様子である。その企画意図を明確にし、参加する作家と来場する者達に対して、伝達する必要があるのではないだろうか。カタイ文章にする必要はない。勿論、関による批評は必要だが不可欠ではない。ゲストに批評をさせて宣伝に利用したり、自らを含む作家でトークを行ったりすればいいのではないだろうか。折角の大切な展覧会を、もっと多くの人々に伝える義務が関にはある。関のキュレーションと作品と発想は、強く主張する力を携えているのだ。