「集積と分断―関直美展『八日目のワープ』&オープニングパフォーマンス評」/ 2015.3.7

宮田徹也 / 日本近代美術思想史研究

関直美がハンノキとシリコンを用い、後に結束バンドと着色を追加する作品群を形成し始めたのは、2010年頃だろうか。今回のHIRAWATAの展示はその集大成であり、作品の意図が明らかになった=私が関の作品群に近づけた展覧会であったと位置づけることができる。

画廊の入り口に関は宣言文と《テーブルマケット》、小品《森の樹木》二点、事務所にも《森の樹木》を展示した。大きな展示室に入るとマケットがそのまま巨大化した《テーブルa》《テーブルb》が重力から離れて床と壁面に展開する。二つの作品は一つに感じられる。

黒いテーブルに結束バンドがびっちりと敷き詰められ、強い力が加わったように長辺がギザギザに裂けている。その間をシリコン、結束バンドが同化し、着色された小さなハンノキが恣意的に配置されている。同じ結束バンドを使用していても、こうも違うのかと驚く。

同上の小さなハンノキが縦横6×6でグループ化した《森の樹木から 36個一組として》は十二組ある。大きな展示室の右壁面と右手前壁面に七組。ガラス戸を跨ぐのが一組、二組は床に、もう一組は床と右壁面を這う。跨ぎ這う姿が「集積と分断」を知らしめる。

ガラス戸の外にはグループの作品が先ほどの線上に一組続き、その奥には短辺から真っ二つに裂けた《机》が「いま、ここ」の状態を保持している。その周りを数え切れないほどの小さな家、《ホワイトセメントシリーズ》が埋め尽くす。

全てが集積されているように見えて、分断された世界である。すると、個々の作品も集積と分断を繰り返している。小さな細胞が集積して個体となり、個体が集積して全体像となる。全体になったとしても、個体は細胞でしかない。

それを教えてくれたのが人体と音のコラボレーションである。立ち尽くす風人が微細な声を発音する。濁朗は全ての体を投じてエレクトロニクスを演奏する。深谷正子と森下こうえんは空間を漂い、全ての作品に干渉する。

関は積極的に身体、音楽とコラボレーションする。コラボレーションとは大抵の場合、協調か離別といったその場限りの現象に留まってしまう。関の場合は違う。関にとってコラボレーションとは、作品が「いま、ここ」に連鎖する状態を示唆するのである。

無論、今回はそれに相応しい四者であった。風人は関と自己の関係性を客観視し、濁朗は現状と仮想を混在させる。深谷は時間軸を破壊し、森下は身体であることすら忘れさせる。関の作品に理解がない者が来たとしても立ち上がる状態を、四者は更に具現化した。

現代芸術が指し示す「いま、ここ」とは時間も場所も吹き飛ばしてしまうので、一過性の現象ではなく連鎖する状態である。関の展覧会はパフォーマンスを含んで持続しているのだから、例えパフォーマンスに立ち会えなくとも空間に身を寄せれば感じることが出来る。

思えばR・セラが強靭な鉄板を用いたパブリック彫刻を発表していた80年代とは、第二次世界大戦で破壊された人間性を回復しようとする時期でもあった。現象だけではなく実体のない情報によって今日の人間は集積することなく粉々に分断されている。

関はセラと同様、時代の変遷を表していることになる。また、関の作品に使用されている結束バンド、シリコン、セメントといった化学製品を考慮に入れると、マーク・ディ・スベロ(Mark Di Suvero)のクレーンのような作品を思い起こす。

セラは自然との融和と対立を探求するために鉄を使用したのだと私は解釈しているのだが、関とマークは明らかに人間と文化との決別を意識している。そのような視線を向けると、重量感溢れるマークと脆弱で儚さをも内在化する関の作品は、同意義でもあるのだ。

関の今回の展覧会は、そういった時代性と共に、彫刻の未来の姿を指標している。題材と素材、重力の関係と、幾らでも考えなければならない問題が山積している。現代芸術と彫刻の探究に、果ては存在しない。関の実験と私は批評を共にしていく。