「かわさきでアート2015によせて」/ 2015.11.1 - 11.27

宮田徹也 / 日本近代美術思想史研究

「かわさきでアート」は五回目を迎えた。川崎大師大山門前仲見世通一帯と東海道かわさき宿交流館という二つの会場を有意義に使用する術を得たことは、川崎という街でアートを実現する可能性を今後も探り続けていくことをも意味している。 また、仲見世通一帯では通りと店内、交流館では展示室と集会室を異なる目的で使用し、活動の幅を広げると同時に、どのような場面でも自由に展開する現代美術の特徴を見せつける結果ともなった。

現代美術の特性とは何か。幾つもあるが、まず、美術に詳しくない者でも気楽に接することができる点にある。次に、これまでの美術以上の厳しさを伴う。そして、従来の美術にはない多種多様な姿を携えることをここで取り上げよう。

仲見世通一帯に展示された作品群が現代美術作品であることに気がついた人は、どれ程いたのであろうか。それ程までに、作品群は溶け込んでいた。木片、岩、動物、ポスター、張り紙、達磨、ガーデン、仮面。大人も子供も楽しそうに眺め、触れていた。 ガラスに描かれたクレヨン画は愛らしいが、店の中の作品群は、何れも厳しさを携えていた。柔らかいオブジェ、壁面を支配する彫刻、絵画と彫刻を往復するオブジェ、ダンスでも映像でもない写真、抽象絵画。この動向は、交流館ギャラリーでも同様だ。

ギャラリーもっちーに出品したアーティストに加え、ビデオ・インスタレーション、エンブレム、時空を喪失した写真と、現代美術の作品群は交流館ギャラリーにおいても多様な展開を示した。いかなる小さな空間でも世界観を構築できるのが現代美術の力である。 集会室ではカメラ、彫刻、映像と多岐に亘るワーク・ショップが繰り広げられた。仲見世通一帯と同様、広い空間を最大限に利用したパフォーマンスも数多く行われた。それは単なる他分野のコラボレーションの枠を超え、人間のあり方の模索に結びついていた。

例えば映像とダンスのパフォーマンスでは、会場一杯に拡がり続けるビニールのオブジェの狭間を二人のダンサーが緩やかに揺蕩った。空間の拡張は、収縮に読み直すことができる。時間の喪失こそ、その有限さを意識させる。 このような質の高い現代美術が集結したのは、権力に媚を売らず、優れた現代美術作品を創出できるアーティストが集った結果である。優れた現代美術のアーティストは、自己も作品も権威とせず、見る者、立ち会う者と一体になるのだ。

これ程までに優れたアートフェスティバルは、早々に実現できるものではない。そもそも現代美術の信条である「いま、ここ」とは、先進国の一部の富裕層とエリートの為に存在するのではなく、何処でも何時でも誰にでも実現できる姿を指している。

「かわさきでアート」は、まさに現代美術の真髄が堪能できる場と時間である。町おこしに現代美術が利用されるのでもなく、現代美術が町おこしを悪用するのでもない、場所を誰もが何時でも共有できるあり方が、「かわさきでアート」において実践されているのだ。 このような方式は、やがて全国にも派生するであろう。そのためには、派生するための努力を怠ってはならないのである。これを支えるのに、実行委員や川崎市だけに任せてはいけない。誰でも参加できることに勇気を持って飛び込む力が必要なのだ。