1993.12

関 直美

彫刻について

 遠い昔、遥か昔、祈りをささげる偶像であったり、身を守る護符だった。

 どこの国においてもそれが彫刻のルーツのようである。

 ヨーロッパにおいては、ギリシャ時代にキャノンの法則のもと、人体の究極の美を磨き上げる。

 その後、彫刻はローマ・ルネッサンスと継承・創造を繰り返してはみるが、ギリシャ時代の美を超えられないままで来た。

 ロダンは、そんなマンネリズムを一掃して古代ギリシャ彫刻が持っていた生命力を彫刻に取り入れ、身近な人間の肌を感じさせる彫刻を作り出す。

 さてここからブールデル、マイヨール等伸びやかな彫刻が花開くわけだが、産業革命以後、あらゆる物質文明の急激な変化イコール近代科学の目まぐるしい発達は、新素材の可能性を確かめつつ、彫刻をもっと大きな概念へと押し広げた。

 具象彫刻―自然の形態が保有するリアルな形や感覚を立体に再現する自然主義―から抽象彫刻への広がり。

 形態・対象の形だけではなく内在する造形の本質とは何なんだ、と本質を取り出す作業にとっかかり、対象を解体したり再構築したり、そして非対象なもの、抽象=アブストラクションへと。

 はじめて抽象彫刻を作った人は誰なのか、はどうでもいいくらい、丁度沸騰した湯のごとく、あちこちで抽象が沸いて出てきた状態だったのではないか、そんな気がする。

 ギリシャ彫刻だけが美の規範であった長い時代を経てエジプト彫刻の力強い美しさ、アフリカ彫刻の持つ不思議さなどさまざまな美が交錯しあい、かつての御用達美術ははつらつと動き始める。芸術の為の芸術を目指したり、人間の為の芸術であるとか言ってみたり。

 ちなみに最近の横尾忠則は自分が自分がと叫ぶ自己主張のアートは終わった、神の声を聞け、と唱えている。

 それはともかく、キュビズム・未来派あたりから何も変わらないように思えるこの時代、相変わらずの忙しさにただ拍車がかかって続いているだけではないのか。

 物・空間・時、を彫り・刻み、現実を把握し未来を予測できるか!出来るか出来ないかとりあえず異化の契機となろうと彫刻する、それは今迄の彫刻がもつ秩序も解体していいのであって、だとしたら何を作ってもいいのである。洗練された美を表現するものであれば。

 原点は抽象彫刻の概念を生み出した時代のパワー。

 彫刻にこだわりたい。し、彫刻を機軸に展開していきたいのであるが、一人で制作する限界に挑戦する時代ではないのかも知れない。

 が、イメージは広がる。

 彫刻は実験。

 ウエに伸びるか、ヨコに広がるか、点になるか、膨張するか!