2001.12 / 千空間

提髪明男

月刊「書道界」

団塊女性が探す「大人の女の自立の魅力」

(中略)

関 直美

関直美の展覧会は、9月21日から10月14日まで、東京・代々木の千空間というギャラリーで開かれた。タイトルは「記憶容量」。

扉を開けて思わず口をついて出た言葉が「カッコイイ!」であった。これは誇張ではなく素直な言葉である。DMハガキで見た時には大きさが分からなかったが、想像以上の大きさでギャラリー空間を圧していた。高さは2メ-トル、そして30センチの角材が幅3メートル、奥行き1・2メートルの矩形に組まれている。

しかし「カッコイイ」と思わせたのは大きさではない。その大きな矩形を支えているたおやかと言ってもいい三本の脚と、ひょろりと伸びている二本の茎のような棒。それらの佇まいが重量を喪失したかのような浮遊感と、どこかの庭先を彷彿させるリリカルな表情さえたたえている。彫刻という無骨なイメージから遠く、スタイリッシュで優れたバランス感覚を見せる作品という点からだ。

ところで「記憶容量」とはどうして付けられたタイトルなのだろう。素っ気ないといえば素っ気ないタイトルである。「記憶」とは入力された情報を蓄えておくこと。時には出力されて使用されることもある。単純にこの作品に当てはめて考えてみる。三本の脚が入力端子、上に突き出た二本の角が出力端子。だとすれば「記憶」を蓄えておくのは、角材で組まれた矩形の内側ということになるのではないか。

ただし、情報といってもこの作品からは無機的な数値データは連想できない。人が生きて、その中で出会うさまざまな物語。それが静かに蓄えられ、「容量」には限界があるため、またいつの間に放出(忘れられて)ゆく。その流れの一刹那がこの形として凝縮されてもいるようだ。

いま一つ印象に残ったのが上の写真。ギャラリーの窓から突き出された逆L字型の数本の棒だ。実は反対側の窓にも同じものが設置されている。これもまた「記憶容量」というタイトルに絡め、端子として考えてみると、ギャラリー空間内に蓄えられた「記憶」を外に向かって放出しているようにも見える。いわばギャラリーという建造物自体も彼女の作品の素材と化し、丸ごと「記憶容量」という作品になってしまっている。

このことが当を得ているかどうかは不明だ。だが、内側に剛と柔を併せ持った核となる作品を据え、外部に向けても発進し続けるかのような彼女の所作を見て、あらためて「カッコイイ!」と思ったのは帰り際に窓を見上げてのことだった。