2009.11.30 / シアターX(カイ)

志賀信夫 / 日本近代美術思想史研究

「立つことの探求」

ダンスの犬 ALL IS FULL 深谷正子 『CHAIN2』

 舞台左、下手に立方体のオブジェがある。ビニールロッカーを小型にしたようなものの中に何かが物体のように存在する。上手には同型のオブジェが立ち並び、下手奥には扇風機が林立する。

立方体の中の物体が女性であることが少しずつわかってくるが、動かない。やがて微妙に動き出す。撓んでいた身体が微細に伸び、開いていく。曲がった独特のフォルムの質感を壊さず、捩れた存在感を維持して、動いていく。極めてゆっくりとした動きだが、舞踏ではない。ポストモダンでもモダンでもない。

やがて、徐々にオブジェから抜け出て、背後の扇風機に向かう。扇風機の林の中に入ると、それが動き出し風を送る。そのなかで、この女、深谷正子は体を折り、崩れ落ちていく。そこで気づく。深谷は天や地を求めるのではない。ただ立つということを探っているのだ。 深谷の立つという表現に何かを感じたのは、2007年の白州だった。(ダンス白州、8月17日)。

広い緑の野原の彼方に白い存在。椅子に座り、頭には銀灰色の奇妙なオブジェ、巻き付けた白い布の端は森の中。あたかも森の中から人間界にはみ出してきた異物。それがやがて静かに進んでくる。巻かれた布がほどかれ、白い長い軌跡を緑の野に描き、深谷が50m以上の距離を淡々と進んでくる姿に戦慄を覚えた。

白い布は風と地面の力で想像できない重さ。緑の森、大地の束縛。そのなかで深谷はしっかり足を踏ん張り立つ。巻いた白布が外れると、黒いシュミーズ姿で立ち、ややダンス的な動きで、上手に進んでいく。その前年、麻布ディプラッツで同じく「ダンスの犬」として行った公演では、玉内集子、岡田隆明らが、黒いゴムバンドの束縛を受けながら、体を捩りながら、立ち続けた(『裂けていく月 vol.4』、4月11日)。

扇風機の森に崩れ落ちた深谷は、立ち上がり、上手に並ぶ透明の直方体、ビニール・オブジェの間に入っていく。そこで見せる動きには、女性という存在のエロスがほのかに漂う。白州のラスト、黒いシュミーズで踊り倒れ、なおも踊り続ける深谷の姿が重なった。

深谷はただ立つこと、地に足をつけて歩むこと、動くこと、それ自体が自分の表現になることを追求している。舞踏も立つことを1つの表現とする。しかしそれは混沌、自己から立ち上がること、屹立することを意味するが、深谷は違う。立つことをニュートラルに捉えている。2007年、中野テルプシコールのソロ『アリス 夏至』では、椅子を置き、立ち、静かに動いていくことで、深谷という存在が開くのを目撃した(5月17日)。身体的確信に依り、当たり前のものとして立つことを見直し、そこから体1つで踊る挑戦。それはダンスの価値に対する挑戦でもある。藤井公・利子にモダンダンスを学びながらも、全く異質の存在として、深谷の活動と存在の意味はますます高まっている。