2012.3.10 / 大崎市民ギャラリー緒絶の館

宮田徹也 / 日本近代美術思想史研究

闇が上昇する -「関一座/5人展へのオマージュ―美術と舞踏と音の試み」-

この試みは、美術と舞踏と音楽が一体を為した一つの行為である。展覧会を一つのパフォーマンスであると認識するのであれば、美術作品の展示とは有限的な存在と化す。それが例え38分という時間内の出来事であっても。関の作品は舞台美術ではなく一つのworkで在り続けたことが重要なのだ。すれば、舞踏と音楽は、視覚と聴覚、空間と時間を乗り越えて、美術作品と同等のworksとして成り立つことになるのだ。

闇の中で鳴り続ける風人による高音の電子音は、情景を生み出していく。右奥に光るライトに百合子は身を投じて影を支配し、左奥に位置する関の作品を緩やかに照らしていく。

関の作品は、三つある。高さ一メートルほどの三角錐柱で、柔らかい素材によって形成され、それぞれの柱にはコードを束ねるプラスティックが巻きつけられている。もう一つは、床に映る影のような三角形である。

百合子がライトから距離をとると、赤いヒール、黒いドレスを身に纏い、黒い日差し除けを被り、顔を隠している姿が浮かび上がる。百合子が左右に揺らぎ、電子音はバロックのように響き渡る。床の三角形の作品が上昇していく。紐で制作されたこの作品は、遠隔操作で分解していくのであった。

突き刺すような電子音が炸裂しても、百合子は動かない。床の作品は消滅する。腰をつけた百合子は左足を前に投げ出す。電子音は断片と化しても雑音性が失われない。百合子は左右の足を漕ぐ。その姿は、正三角錐柱のフォルムと重なる。

百合子は立ち上がり、両手を広げ、左壁面に向かう。その際に生まれる影も美しい。頭部を壁面につけ、軸として回転し、手前に迫ってくる。壁から離れると、日差し除けを外しにじり歩く。泡立つ様なノイズが百合子を包む。

百合子は左手を動機としてこちらに背を向け、奥へ進んでいく。腰をつき、浮かせた両足を着地させる。四足でさ迷うと、正三角錐柱の作品が広がり、二倍となり、宙を舞う。同時に三つ目の作品、ボールが天井から落ちる。百合子は体の左側面を下にして、立脚する。風人は電子音を止め、自らの声をエフェクトする。

百合子は振る右手を動機として、体を起こしていく。紐を丸めたボールが跳ねながら収縮する。百合子は両手を掲げる。緩やかなノイズが空間を支配していく。百合子は消尽したボールの軸である浮きを右手にし、胸に秘めるとworksは終了する。

風人は未来派の騒音音楽からサンプリングを経て、ミュージック・コンクレートに至るまでの電子音楽の結合を緩やかに実現した。百合子の舞踏は百合子の舞踏であり得、重量と呪縛を保ちつつ、変化することなく音と美術に同化した。

関の作品は現代美術が持つ台座、素材、質量という課題に対して雄弁に答えた。床の作品を正三角錐柱の台座と見ることもできる。解けて失われる姿に質量の消滅感を与えている。鎮座した彫刻が宙に舞う姿に、素材を問う必然性は無化される。

何よりも影が上昇し、物質が影のように出現し、時間軸を逆回転させるように作品を生み出す姿は、闇を掬い取る舞踏、沈黙の彼方に消え失せる電子音との逆転と一体を提示したのであった。

関一座の次回の瞬間を汲み上げる必然性が、偶然にも遺されたことに注目すべきであろう。