「ACkid 2014」 w/ 若尾伊佐子 / キッドアイラックアートホール / 明大前 / 2014.4.22

キッドアイラックアートホール / 明大前

宮田徹也 / 日本近代美術思想史研究

赤、青、緑、黄のテープのような幅30cmの層が二階の床に当たる中央右寄りの部分から後方壁面を経て、舞台床を通過し客席前方にまで延びている。これが関の作品である。舞台左側に、何の変哲もない黒いテーブルが置かれている。

薄い明かりが舞台を照らし、若尾が頭を奥、右側面を下にして横たわり、公演が始まる。床の作品に光が当たる。若尾は首を動かし、微細なダンスを始める。頭部だけが動き続ける。何時しか手足が伸びていく。

若尾は再び竦み、作品の側に体を添える。床に矩形の青いライトが投じられる。無音は続く。若尾は左側面を下にして、手足がフォルムの形成を始める。そのまま後方へ退き、作品に背を向けて正座の体勢となる。

若尾は両掌を床につけて、作品を覗き込む。頬で作品に触れると、作品は層になっているのではなく細い線が幾つも連なっていることが理解できる。若尾は立ち上がっても作品に干渉を続ける。

壁際に右三、中四、右三の光の柱を発生させたのは、照明の早川誠司によるセンスである。これにより関の作品と若尾のダンスが更に引き立つ。若尾は作品と後方壁面の間に身を滑り込ませていく。そこから抜け出すと、客席直前にまで迫ってくる。

止まり、後方壁面の作品を見詰め、対峙しながら身を揺らめかせる。作品の右側の一部が上に引っ張られ、解れていく。作品は徐々にそのフォルムを崩壊させながら、闇に吸い込まれるのだ。無を目指して。

若尾は右手を掲げて希求しつつも作品に別れを告げる。作品は左側からも解体される。若尾は作品に触れるが、直ぐに離別する。細やかに舞う若尾の動きと緻密に消滅する関の作品が融合する。

照明も緩やかに落ちる中、若尾は後方壁面に寄りかかって崩壊する作品を見詰める。やがて目を閉じ、心が赴くままの表情を浮かべ、左側へ移動する。掌で壁面を押さえ、床遠くに離した足に力を加え、身を窶していく。

消尽する作品に対して、若尾は新しい時間軸を注ぎ込む。突如若尾は肘で作品の動きを止める。顎、耳から作品は逃げる。腰掛けた若尾は作品を見上げ、立ち上がり、その場で佇む。作品に手を添えては離す。

足で止めても、その束縛から逃れる所作を止めることは出来ない。作品の左に若尾は立ち、指先で琴のように作品を弾く。若尾は左壁面に身を寄せる。左肘のみを壁に沿え、首を擡げて体を左右へ振る。作品が解体する速度が上がる。

若尾はそれに応えるように、次第に力を下へ放出する。若尾は壁から離れ、作品と同様に垂直に立つ。作品が解れていく中、若尾はテーブルの前に立ち、両手を翳す。黒いテーブルと床を照らす赤いライト、若尾を照らす緑のライトのコントラストが発生する。

若尾はテーブルに触れず、掌を足の裏のように歩行させる。そして若尾はテーブルの上、壁面、作品に触り、掴み、自らの体内からリズムを発生させる。正座の体勢となった若尾は四足に変化して前に向かっていく。

そして、うつ伏せに身を横たえる。そのまま後方壁面に手を這わせて立ち上がる。右肩を壁面に付け、続けて向きを変えて背中を付ける。畳んだ両肘を放つとテーブルが裂けて光が零れる。

テーブルは真っ二つに割れて瓦解する。若尾は僅かに残った作品を上下させる。若尾は二つに折れてV字となったテーブルに触れることなく肘を這わせる。作品の左側に背を向けて座る。作品が完全に消滅することなく、暗転も為されずに一時間の公演は終わる。

結局、関は帯の作品とテーブルの作品という、二つの作品をここに投入したことになる。共に消滅することはなくとも瓦解し、それまでと異なる姿になるよう工夫がなされていた。これは作品の発生と死を見せたいのではないだろう。

同時に、作品の制作過程を示すものでもない。関は彫刻にこだわり続けている。彫刻がモノであること、実体であること、意識であることについての考察を行い、制作を続けていると私は解釈している。

するとここに発表した二つの作品とは、消滅、または破壊されることによって、更に物質性が強調されていると読み取ることができるのではないだろうか。しかもそれがコンセプチュアルな言い訳ではなく、もっと実質的な要素を多く含んでいることに注目する。

失われる、ということは、在ったから失うことが可能になるのが前提である。無いモノは、はじめから失われることがない。姿形を見失っても、在ったものは在った。そして、在り続けるのではないだろうか。

それを説話的に儚さや無常で語ることは安易であろう。若尾はこの現実に対して、現象学的にも実存主義的にも答えず、唯、自らの体で、いつもの自らのダンスで呼応した。当然、ダンスも失われるし私達も死に向かっているのではあるのだが、そういった刹那ではなく、もっと自然に、我々の在り方について、関と若尾は見せたのではないか。

それに立ち会う我々もまた、応えるべきであろう。