関 直美 展「Inside Out」/ 2014.4.20 - 4.27

キッドアイラックアートホール 5階ギャラリー / 明大前

宮田徹也 / 日本近代美術思想史研究

ACkid期間中、出品作家によるグループ展が開催されたことはあったが、個展は今回が初めてである。一過性である舞台の熱気をそのまま作品に封じ込め、グループ展に展示するのも一つの在り方ではあるのだが、あえて一人の作家を選出し個展が継続することによって、Ackidが単なる舞台フェスティバルではなく、美術、ダンス、音楽という形態を超克する一つの形であることが強調されたのであった。

関直美の作品は近年、川崎の「お大師様でアート」に代表されるように、画廊という密閉された空間よりも外に溢れている場合が多い。それは単に室内彫刻と画廊彫刻という隔てや、パブリックモニュメントとホワイトキューブという制度を超えて、もっと人間が生きる営みや生活、呼吸や鼓動といった人類の大文字ではない歴史や叡智に向かっているのではないかと感じる。

今回キッドアイラックアートホール5Fギャラリーという特殊な舞台を前提に、関は作品を制作し、自ら選出して展示した。4階から5階へ階段を上がると部屋に入る前に、先ずは《Flat》(2014年/w94×d12×h32cm/木、結束バンド他)が出迎えてくれる。コンクリートの平台を程よくはみ出したこの作品は黒に白い斑の四層が、三つの白い層に分断され、一番上の白い層は鰐の口のように裂け、結束バンドが歯のように立ち並んでいる。彫刻と土台の課題を克服し、従来の素材とマッスの問題に対して、更に問いを投げかけている。

扉を入って右側には硝子ケースが置かれ、中には《Flat 5》(2014年/w20×d2×h10cm×5個/木、結束バンド他)が展示されている。メタリックに彩られた作品群は金属と錯覚するが木であり、掌を模倣されているのかと思いきや、《Flat》と同様、層と層が噛み合い、解れ、根本から穂先にかけて時間の経過を必要としないまま、刻々と変化が訪れている様を確認することが出来る。これは形態の意識を無化していくことを表している。

画廊中央には棺桶のような矩形が五体置かれ、窓際の一つにジョイントされた木片は窓を通じ外の空間に繋がっていく。キャプションを見ると《Inside Out》(w100×d42×h20~30cm×5個/木、結束バンド他/L字アーム270cm、160cm×2個/木、結束バンド他)となっているので、この作品は全体で一つであることが伺える。棺桶をテーマとする作品は日本近現代美術で多々ある。その中でも絶妙の大きさとバランスを携えている作品である。

更に5つの躯体の内部に溢れる結束バンドが、そのサイズに対して空間性を狭めるのではなく広げていくのである。これは、内側と外側という人間が持つ本能に対して呼びかけ、働く為に、外が内で内が外へ広がっていく様を、見る者は錯視しながらも感じていくのだ。同サイズや同形を用いず、全てが異なっている姿も人間の個々が個別に成り立っていることを表しているように思えてならない。

そのうちの一つが窓を通じてバルコニーを経て足が届かない空間に至るとしても、決して神の国へ到達しない点が、人間中心主義すらも排除していると言うことが可能なのではないだろうか。私達は進化などしない。旅をするだけに過ぎない。その旅は計画されているようで、実は恣意的であり、向かっている先は未定なのに何時しか運命付けられていく。その運命を受け入れた上で、初めて私達は自由になれるのだ。

以上、三種類の作品を関は展示したのであるが、三者とも共通しながらも全く異なる意識を持つ点にも注目しなければなるまい。二点に「Flat」という作品名が与えられているのが面白い。立体なのに平坦とは何を指しているのであろうか。関の作品に一貫するのは、極めて「彫刻」であり続けることにある。平らといって二次元の絵画性を見出すのは、余りにも安易である。平坦であることが彫刻であると定義することも可能であろう。

そもそも「彫刻」と「立体」、二次元と三次元とは異なる発想を持つ。彫刻は立体ではない。何故なら立体が全て彫刻になってしまうからだ。では何を意識したら彫刻になるのであろうか。三次元であろうか。絵画であっても、極めて三次元な作品は此処に取り上げる必要もないほどに多々存在する。三次元を二次元に封じ込めるのが絵画でないのと同じように、彫刻もまた、二次元を三次元に引き上げる役割を果たしていない。

では彫刻とは何か。その問いに答えられるのであれば、人間は美を解析し凌駕することが可能になる位、答えのない問いであろう。それでもここでは一つの答えなき問いを関の作品から導き出さなければなるまい。素材と重力と空間の問題が彫刻では常に語られている。空間性と場所と雰囲気の問題も存在するが、ここでは触れない。問題なのは、彫刻が実在するものであるかそうでないかにかかっている。

モノであるか意識であるか。認識論などという難解な発想ではない。彫刻というモノであることが、彫刻を支える概念と化す。それを意識するかしないかに、彫刻の未来は託されている。この点において、関の彫刻は彫刻であり続けるのだ。意識が実体化するのか、実体が意識化されるのか。