学生時代のこと

2021年5月、若い多摩美の彫刻科の後輩が尋ねてきました。 私の彫刻をめぐる考えについてインタビューを受けました。そして話は私たちの学生時代へ、その頃の資料があるはずだ、と約束しましたが見つかりませんでした。
以下その顛末です。

「外野展」の資料を探しましたが、残念ながら見つかりませんでした。
ですが、同期生の手元に面白い資料がありましたのでお借りしてきました。

  • 1. 全学教授会の訴え/ 2ページ / 1970年
    当時の様子がわかる大変貴重な資料です。
  • 2. アジビラ 自らの闘いを構築 / 1969年 文責 谷口滋、上原克二 /
    ともに同期生 彫刻科有志が不定期に配ったもの。他にも何枚か出てきました。
  • 3. 新がんたろうNo.2 / 1970年 B5のホチキス止め、8ページ、彫刻科の不定期リーフレット / 表紙のみスキャン
    右は山中湖ゼミに参加予定者のメモ。2年の欄が68年入学の私たち。私は山岳部の山行合宿で不参加。
  • 4. 「新がんたろう」発行の呼びかけ / 1970年
  • 5. 多摩美当局は / 1969年 多摩美・多摩芸救対センター(救対)
  • 6. 受験生諸君 / おそらく1970年 彫刻科有志

1の全学教授会の訴えのビラ / 1970年2月 / をもとに関連事項整理

(1968年
4月

関直美彫刻科に入学)

1969年
1月

「トイレにトイレットペーパーをつけよ」全学集会

その後学生によるバリケード封鎖
八王子分校の白紙撤回、全学教授会の確立要求

2月
10日

入試期日目前に第一次封鎖の解除

3月

理事会・評議員会は総退陣表明したが雲隠れ

4月
18日

学生による本館封鎖

5月
8日

新理事会・評議員会成立

5月
下旬以降

教授会による自主講座開始

7月
初旬

学生による全学再封鎖

これにより自主講座一旦中止

9月
20日

大学側から「退去命令」の張り出し

10月

教授会と理事会・評議員会との合同会議

10月
19日

機動隊導入によるロックアウト 学生18名逮捕

12月
初旬

誓約書付き通行証による検問制で授業開始

通行証交付願いの学生は1450名中約700名
実際の受講者は多くて百数十名 この間自主講座継続
学内と学外に学生・教員が分裂した状態へ

1970年
2月

全学教授会による訴えのビラを出す

4月

彫刻科で「リーフレット新がんたろう」発行

5月
 20
・21日

山中湖において彫刻科自主ゼミ教員含めて41名参加


以上ビラをもとに1969、1970年のみを整理してみました。

元をただすと、こんな経緯ののちの彫刻科仲間でスタートした「外野展」の活動資料を探し始めたことからなのですが、どうしても見つからない、当時の事務局を務めていた同期の谷口滋に問い合わせたところ彼も見つからない、しかしその代わりに彼のところから特筆すべき貴重な資料がでてきました。借りてきたこれらの資料は、50年の歳月を経た黄ばんだぼろぼろの手書きのガリ版印刷。
彫刻科では彼が中心になりアジビラやリーフレット「新がんたろう」の発行、そして学生の取りまとめをしていましたっけ。ちなみに彼は大学側のロックアウト後の誓約書付き通行証を拒否して留年。おまけに言うと彼はすでに子持ち、そのお嬢さんはもう50歳近いはずです。退学した友も何人になるでしょうか。
その年の留年組は確か4、5人いたはずです。もちろん呑気にバイトに精を出し気がついたら留年という者も含みます。まあ彼らのおかげで一学年下とは大変仲良しでした。考えてみたらまる2年まともな授業を受けていない私たち。私としては納得がいかない、というわけで私は大学院に進むことを決めました。したがって後述する「外野展」には後から参加しています。

学内は外からのセクト(党派)も入り込み当時のヘルメット(セクト別に黒、青、赤、白のヘルメットをかぶっていた)は、さすが多摩美術大学だけにカラフルだった、と久々に会った谷口滋は笑う。当時よそでは彼らがぶつかるといわゆる内ゲバ、暴力沙汰になったが多摩美では起こらなかったとか。


「外野展」について / 資料が出て来ないので同期の谷口滋と5月18日に話したことと、ほかに一学年下の高垣篤に聞いたことをもとにまとめました。
◯活動時期:1973年から1984年。
◯ 1の資料からわかるように69年から自主授業と大学側の授業が混在し、バリケード封鎖後は大学のロックアウトで、通行証がなければ学内に入れない状態でした。そんな学生生活での日々の討論から、自主的に作品をつくろうということは当たり前の共通認識でした。自主的とは大まかに言うと、つくることと評論することをさします。そしてそのフィールドにおいて、作家・ギャラリー・評論家といったサークルである種回っているスペース(当時私たちはこれを、世間から見た閉じられた空間と定義した)を内野としたら、私たちはその外側にシフトして工場労働者や地域に向けて作品をつくろうといったコンセプトで、川崎市中原区多摩川べりの工場で実験的な展示活動をスタート。以下高垣篤からの聞き取りから。

工場は元大洋ホエールズの野球場の丁度ホームベースの後ろにあって、日々ピッチャーの投げる速球を眺めていた。そんなことから活動の名称を「外野展」と提案。
その工場は、高垣篤を中心に看板制作や鉄関係の仕事、遊具制作などの下請けで生計を立てる者(彫刻科出身)で家賃は賄われ、必ずしも作品をつくる者たちでの立ち上げではなかった。ある時ふぐ鍋の誘いに乗って仲間がわさわさやってきて、その何人かが「外野展」のメンバーに加わる。
私もふぐ鍋の一人だったかもしれません。

後に中原市民ギャラリー、横浜市民ギャラリー、神奈川県民ホールなどでの展示へと移り、1985年「コンテナ」と改称、1988年まで活動。
学生運動が下火になり時代の流れとともに「外野展」の当初のコンセプトが次第に失せていったことは自明の理であり、おそらく多摩川ベリでの何年かの活動の時期が一番おもしろかったのではないか。

メンバー:谷口滋(68年彫刻科入学)、高垣篤、八柳尚樹(ともに69年彫刻科入学)らに関直美(68年彫刻科入学)、ほか彫刻科出身(69年入学やそれ以降)の仲間、デザイン科、油絵出身、多摩美以外のメンバーも入れかわり加わる

追加:第八回外野展リーフレットから
日時:6月1日〜6月10日 推定 / 1975年
場所:横浜市民ギャラリー
参加者:小柳真知子(油絵科)、加藤友三郎(彫刻科)、加藤直美(関の旧姓)、黄婉芳(デザイン科)、高垣篤(彫刻科)、谷口滋(彫刻科)、八柳尚樹(彫刻科)、山本秀夫(埼玉大学)*カッコ内は出身専攻科目