「エキシビションメイキングに見るフェミニズム」を聞いて考えてしまったこと

彫刻家 / 関直美 / 2022

2022年11月15日 / 15:00~17:00 

ストリーミングによる出演:片岡真実・笠原美智子・長島由里枝・小田原のどか                                (敬称略)

「アナザーエナジー展 挑戦しつづける力ー世界の女性アーチスト16人」から
  2021年4月22日〜2022年1月16日 / 森美術館

1、出てきた事柄をまず羅列してみた
・長い間企画実施してきたがまだまだフェミニズムの視点からの研究、展覧会が少ない
・女とか男とかの線引きに疑問がある
・第三波フェミニズムの1990年代とは
・女の子写真からガーリーフォトへ
・展覧会は新しいものを追い求めて若い作家に焦点を当ててきたが、2012年の「ドクメンタ」では出展作家の年齢や国の多様な広がりが見えた
・ある展覧会に出展する男女作家の同数が達成された 数だけそろえて何が隠れてしまったのか
・フェミニストではないと思わないと生きていけない人がいる事実
・二項対立からもっと広い視点へ トランスジェンダーも含む広範囲な問題意識
・男の市場で占められているうちのわずか数%が世界の女性のシェア、それも5人の作家で占められている 注:「ドクメンタ​​​​」とはドイツのカッセルで5年に一度開催される国際アート展

2、品位あるアピール
1995年ベルリンで第1回の開催を皮切りにスタートしたCOPにおいて近年、オブザーバーの参加が活発であり、承認済み非営利団体に加えてそれ以外の非営利団体も参加できるようになった。2021年11月にグラスゴーで開催されたCOP26に、「金曜日の未来」の日本組織から参加した若者五人は、11月5日の金曜日の数千人規模のデモ行進にも参加、世界中の若者たちと共に気候変動対策を訴えた。
原有穂は、女子高校生としてわかるように制服を着用してアピール、海外の同世代と共にしたホームステイや活動を通して、環境問題の本質は、差別や貧困など幅広い問題と深く繋がっていることに気付かされたと言う。切実さの度合いが決して高くない日本に生まれたこと、その立場で感じる問題意識を大切にしながらこれからも活動を続けていくこと、それが彼女の目から見た思いであり、声出す若者の一人として注目された。

直接的または間接的であるにせよフェミニズムにおける美術の企画は、そのような問題提起を緻密で品位ある方法でアピールできる。加えて会場での豊かな感動体験は何よりもの良薬となり、私たちが享受するだけでなく政治家にもぜひ勧めたい。

私たち世代は学生時代の紛争から、ノンポリでありながらもそれらを身をもって考えさせられた。エスカレートするデモ隊と機動隊との抗争は連日繰り広げられ、大根のように逮捕されるデモ隊に勿論シンパシーは集まり、加害者はどっちだという権力の行使を目の当たりにした。
多摩美術大学でも逮捕者が出たが、学外での事件は、本気で革命を唱える暴力を肯定した政治闘争にまで発展して行く。イデオロギーはともかく、本気で戦った若者たちがいた。
その結末は急速に終焉したが、私にとっては多摩美の紛争なんてインチキだ、という長い間の思いは尾を引き、本気度100%の前科者、監獄生活7年の詩人と家庭を持つ。
一緒になった前科者を通して、東京は山谷、横浜は寿、大阪はあいりん、名古屋は笹島といったいわゆる日雇労働者である「立ちんぼ」の職業斡旋の町に潜った元活動家の存在を知る。活動家とはそれぞれのセクト組織に専従することが仕事だった。
なまっちょろい私にとって、日雇い労働者の支援をする彼らは新鮮に映った。
それは私の生き方の原点につながる。
悲しいかな、今でも日々報道されるデモでの権力との抗争はあちこちで起きている。

3、自身について考えてしまった
男性社会構造であった学生時代の多摩美術大学彫刻科。
浪人生の多い学年で女子学生は少なく、同学年いや先輩からも18歳の小娘の私は〇〇ちゃんと呼ばれたことを思い出す。数少ない彫刻科女子先輩の中で活動している作家は、公募団体の新制作の会員である森田やすこ(1945〜)以外知らない。多摩美術大学以外での女性造形作家は宮脇愛子(1929〜2014)、多田美波(1944〜2014)の二人だけ。
私はかろうじてここまで制作を続けることができてきたが、この座談の中で、彫刻科後輩にあたる彫刻家で評論を手がける小田原のどか曰く、私が表舞台で一度も日の目を見ることがなかった作家であることを指摘した。そんな私の2002年アイルランドでの作品を、彼女が美術手帖で取り上げてくれたことはうれしい限りである。
確かに、グランプリを一度取った以外は制作活動を続けてきたにもかかわらず縁がなかった。なぜ?

素材として木を扱った彫刻という私のスタンス。
1970年代からバブル崩壊を私なりの解釈で1994年とすると、その間は野外彫刻展、公共彫刻は花盛り、ある作家は大学の教員を辞めて野外制作に専念したくらい収入があったようだ。
ただし、野外彫刻の素材はメンテナンスを考慮して木を除く石、金属に限られた。
当時の彫刻の概念はまだ大まかにいうと抽象作品、具象作品とシンプルに二分され、野外での展示に具象が受け入れられたのは、ブロンズとして雨天に対応できることからだろう。
注:当時の「具象」とは、ある種アカデミックな塑像などの制作概念
具象作家として柳原義達(1910〜2004)、舟越保武(1912〜2002)、佐藤忠良(1912〜2011)の三人のみを列記するが、確かに全て男である

「もの派」とのちに命名される動きは、私の少し上の学年の油画の「斉藤義重(1904〜2001)教室」から始まった。彫刻科の中で、その動きに連動したのは先輩の小清水漸(1944〜)のみであったことを記憶している。
おりしもロックアウト下の学内は教授会が二つに割れて、学内授業は大学が進めるもの、学外は大学に反対する教授と学生のそれであった。そのような流れの経過ののち、私たち仲間の学生は、自主的に外野のスタンスで活動することを選んだ。
銀座や京橋のギャラリーが持つステイタスを内野ととらえ、外野のスタンスに位置して内野以外の人々に呼びかけることを目論んだのである。
しかしながら、学生運動の終焉とともにそんな勢いも萎んでいく。
そして、その外野というスタンスの眼差しは私のこだわりとして持ち続けながら、1990年代に中央の画廊での個展に踏み切った。そのような経過から、1994年の岐阜県関市の現代日本木彫フェスティバルにも応募した。
大賞を受賞したが何も変わらない、ただアイルランドでの何回かにわたる国際彫刻シンポジウムへの招聘は、その効用だったかも知れない。
その私にとって唯一記念すべき木彫フェスも、バブル崩壊とともに消滅してしまう。

私がアイルランドに行き出した1990年代、その初頭から「ネオポップ」が台頭し移行する日本の美術シーンは、彫刻史ともども彫刻という概念が掃き去られてしまった感がある。いささか乱暴な言い方ではあるが、確かに大きな過渡期であった。高度成長期とともに美術館の建設ラッシュ、その需要に欧米帰りの学芸員が重用されたことと無関係ではないだろう。欧米の確かな整合性を持ったコンセプトがもたらされ、それによって美術が構築されていく。建畠覚造(1919〜2006)、土谷武(1926〜2004)などを始めとした現代彫刻を読み解く作業がフェイドアウトするのは、愛宕山画廊の閉廊と重なる。
注:「もの派」については「Artwords」など、「ネオポップ」については「現代美術用語辞典1.0」などを参照していただきたい

彫刻の流れは新具象として舟越桂(1951〜)、彫刻なんか知らないよ、といった雑草の彫刻の須田悦弘(1969〜)が登場する。木彫の流れはこのように具象的なモチーフに置き換えられていく。ちなみに木ではないがイギリスでアントニー・ゴームリー(1950〜)の人体彫刻が登場している。
そして抽象彫刻は多様化する美術に道を譲っていく。
その多様化する美術において、極めて日本的な現象である若い女性作家が「女の子アーチスト」と括られたのもこの頃である。
その後予算削減を迫られた美術は、学術的に大事な企画から入場者数を考慮しなければならない企画へシフトして行かざるを得なくなる。

以上、1990年代までのおおよその彫刻の流れを私なりの解釈で見てきた。
このような経過から私は有名ではない、無名の道を歩んできたようだ。
それも良し。
もしコンペに通り大きな資金調達ができたら、一人の範囲では出来得ないダイナミックな仕事ができるだろうな、とまだ夢見ているのだが。
彫刻は実験である。そして彫刻は悩ましい。