「彫刻を生きる」書評


畠山崇:本文三の2「外野展」のメンバー、画家

本文は87頁です。一気に読みました。
著者は半世紀の長きにわたり、彫刻を制作してきました。表題「彫刻を生きる」、著者は彫刻を生きてきたのです。
私は著者と半世紀近い交友があります。といって、著者をよく理解していると言っては僭越です。
私はこの本を客観して扱いたいと思います。主観的に扱いたい気持ちは重々ですが、私情は著者の「彫刻を生きる」という姿勢に失礼になると思います。
 約半世紀前(1970年代)から、著者ほどの熱量を保ちつつ、制作に努めてきた女性彫刻家がこの国に何人ほどいたでしょうか。私は寡聞にして多くを知りません。著者は、この本を読めばわかりますが、手綱を緩めることなく彫刻してきた人です。
 著者は、既成の外にいることを旨として、制作活動をしてきた人です。
この本に、団体展について、の一章が書かれています。私は知っています。団体展は内野です。仲間内です。もっと悪いことに、仲間内でヒエラルキーまで作ります。準会員・会員・名誉会員、エトセトラ。著者はそれを厳しく拒絶した人です。
 著者は女性彫刻家です。50年、この国で、女性が芸術活動に途切れることなく従事してきた、それは険しすぎるほど険しい歩みであったはずです。21世紀の今日でさえ女性が社会活動するのは難儀の連続です。彼女はそれを半世紀継続してきたのです。
この本には詳しく書かれていませんが、著者は社会参加型の発表(ワークショップ)をいくつも企画立案実践しています。私が見聞したのは「川崎大師」でのワークショップです。芸術のための芸術、著者はその逆の活動をしてきました。著者は、女性彫刻家として直面する社会に対峙することで、多方面の活動を展開してきたのだと思います。
 著者は領域を軽々と超えていく彫刻家です。20世紀の終わり頃、国際彫刻シンポジウムの招待で、アイルランドでの公開制作に参加しました。その後も何回かアイルランドを訪れ公開制作を行なっています。それらの作品が図版に掲載されています。
 ダンスパフォーマンスとの協働表現にも深く関わっています。表現領域の垣根を軽々と越境して未知の世界を作り出す、その写真も画像に掲載されています。これらは本来ならその場を体験しその時間を共有してこそ、その表現意図が理解されるところであり、残念です。
 著者の彫刻は緊張と均衡の表現です。大木を使用した作品は、自然の重力とそれに負けまいとする人間の知力が、危うい様相で表現されています。図版のいくつかの作品にそれを見ることができます。近年はそれにフェティシズムが加わっています。直近の着色された彫刻や人体の一部が表出された彫刻にそれが表現されています。
 〈芸術とは孤独な人間の社会的な行為である。〉イエーツ
関直美はこれからも制作(produce)者であり続けるでしょう。主観として応援しています。

「彫刻を生きる」書評 高村牧子 / 彫刻家 2023年6月19日

仕事帰りにマクドナルドで読了。
関さんのいつもの語り口の文章で、引き込まれて一気読みしました。
関さんの仕事量からしたらコレはエッセンスですね。目次で分かる通り話はフェミニズムから始まっており、ご自身もご苦労もされたことでしょうが、御本人はいつも朗らかにしているとおり、文章も苦労自慢は全くありません。改めて関直美さんの強さを感じました。こんな先輩がいることが誇らしく思えます。(学校ちがいますが、美術大学彫刻科卒業女子として)


坂巻裕一 / デザイナー 2023年6月14日

2006年に買ったきりの一眼レフカメラをいいかげん買い換えようと検討していたところ、もしかして俺くらいなら3つレンズのアイフォーンで十分なのではないかと気づいてしまった。しかし今日のトークショウで、「今だ!」というときを携帯をスリープ解除している間に撮り逃してしまい、やはり一眼レフかと迷う。昔は上質な素材を求めたが、木彫ならベニヤなどのありふれたものを使うのが今らしいという。実はこの写真集はアイフォンで撮りました(今らしいだろドヤ)って言ってみたい。著書(展覧会は出版記念)は帰りに寄ったすき家で一気読み。ハードカバーでありながら(トーク相手で先に出版している日本近代美術思想史研究者)宮田徹也さんのソフトカバーより薄く、かつ私のレベルに近い言葉で読みやすい。人気女流作家への男の嫉妬や公募展問題など、しょーもないけど引き込まれる話も織り交ぜて。「品位あっての表現の自由」に同意。「作品は捨てるなっていわれても限界がある」に同情。
「彫刻の危機だ」とつぶやいたのは誰かしら。


写真はアイフォーンSE(第一世代)デジタルズームで撮影

*「彫刻に生きる」展出版記念トーク 18:00~ 6 / 13 at Gallery KINGYO