「私の10点」畠山崇


畠山崇「私の10点」月刊「Gallery」10月号

長い付き合いのある知人から雑誌が送られてきました。 知り合いの方は彫刻家です。送られてきた雑誌に、[私の10点]関直美、のタイトルで特集が組まれていました。知り合いは夏に「彫刻を生きる」という御本も出版なさっています。 [私の10点]関直美は年代順に写真掲載されいます。1990年代の作品が6点取り上げられています。2000年代作品が4点。そして直近の作品が数点掲載されています。
特集の10点の彫刻写真を見て思うことがありました。「身体と表現」とでも主題できるでしょうか。
関直美さんの「彫刻」は何故「身体」と「表現」であると思ったのか、それを述べてみたいと思います。
1990年代の作品は、スケールが大きく、使われている素材も重量のあるものが多いです。 作品作りは作り手の「身体」抜きには考えられない、と私は思います。「身体」が充実していると無理も効きます。ということで、出来そうで出来ないことに挑む、ということが「表現」された作品が制作されるということです。正鵠ではないでしょうか。
米マツ鉄板で作られた、危なげに均衡する8M50cm×2Mの作品。
米マツ・アルミ・ワイヤー他で作られた、1M50CM×1M90CM×3Mのスケールの、屋外設置の作品。
これらの作品は「身体」が充実していたからこそ出来た制作、と言っても過言ではないでしょう。
関直美さんは1949年生まれだそうですから、40歳台の「身体」を全開にしてこれらの作品を制作したのです。
芸術作品、特に抽象芸術、は難解な解説がされてそれを鑑賞者に押し付けるという傾向があります。そうすることで、芸術作品が高尚化して、解説者と理解者が選別されます。でもです。作り手は「身体」化された個人です。作る行為自体は、道具や素材と「身体」が一緒になって行われます。関直美さんは「観念」である前に「身体」であり、その力が1990年代のボリュウームに満ちた作品群を生み出した言えます。
「身体」は変容するのが宿命です。筋肉は永遠ではありません。でもそれに反比例して、「熟練」します。「熟練」は「慣れ」ではありません。作り続けた「体験」が「身体化」した時に作り手が得たものです。2000年代の作品には「身体化」された「熟練」が作品作りに強く作用しているように印象します。1990年代作品が「均衡」を扱っていたのは、それが作品として実現できるかという挑戦の年月だった事を思えば、当然なように思えます。やがて経た10年は関直美さんに制作の「熟練」をもたらした、と私は思います。素材は前とほとんど変わりません。ですが扱いには目に見える変化あります。題名もあります。作品は静謐な佇まいで展示空間に馴染んでいます。「身体」がその作品を作ったのだと思います。「身体」の力ではなく「身体」の「知恵」への変容といっていいのかもしれません。
関直美さんが2023年に発表された実作品を見ました。正面真っ向勝負の「身体」という作品からは遠くへ来たという印象です。当然だと思います。人が「身体」性から阻害されるのは自然性を生きている必然です。作品の主題に「自然」が表出してきています。そのことはとても興味深い事です。「身体」と向き合い受容する必然に出会う齢になった関直美さん。還相の道行の作品づくりに挑む関直美さんのこれからが楽しみです。